2011年10月16日から、このブログを書き始めました。 サマゴーンは、ラムカムヘン通りの北、ソイ110に位置する、 バンコクでも歴史が長い有名大住宅街(と言われているよう)です。 戸数、5000の、キング・プロジェクトで開発された、かなり大きなムー・バーンです。 ロングステイを一歩踏み込んだ生活となりましたので、 都心から離れ、しかし、まったくの田舎暮らしでもない、こういうところもいいのか、 と思って住み始めました。 さて、どんな生活になることでしょうか。

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2013/08/04

過ぎし愛のとき  


中川京都帝国大学教授夫人、俊子が初めて川田順に

会ったのは、和歌の生徒と、先生としてであった。

俊子、35歳。川田、62歳。

川田は、住友本社の重役を辞した3年後、妻を亡くした。

俊子に出会ったのは、それから5年後である。

「おいらくの恋」は、

ぱっと出会って、あっと燃え上がった

ような恋ではない。

紆余曲折があり、結ばれたのは5年後である。


俊子は、3人の子をなしていたが、幸せな結婚ではなかった。

30歳と17歳の結婚。

中川は、刻苦勉励型の古い意識に凝り固まった人間だった。

大学、大学院での成績は抜群によく、彼を見込んだ母の

いいなりになっての結婚だったが、

当初から、「きみみたいなもの」とか

「持参金もないし、着物もろくに持っていない」ということを

常日頃に言う男だった。


俊子が35歳にして、趣味の文学の道の師として現れた、

川田に徐々に惹かれていくのはありうることであった。


中川は、妻と川田の件を知るや、俊子に家庭内暴力を

振るう亭主、だった。。。


さて、川田と俊子が「おいらくの恋」を成就させるのは

良いとして、

僕が興味を覚えたのは、その中川教授の、その後、である。


「過ぎし愛のとき」 早瀬圭一著

には、そのことが記述されている。


妻に去られた中川余之助博士は、「手記」のなかで、

こう語る。

「私は学者として教育者として、我が学は正しいと

信じて教壇に立ってきた。

ところが、今この家庭問題に直面して私の人間学が

ガラガラと崩れてきた。

私の学問の全部が、御破算されねばならないのだ。

私はK氏に対し、またT子に対し、いかに人間学的な

認識の足りなかったことか、矢張り私の学問の

浅慮不徹底のいたすところだ。

私はあらゆる角度から厳しい自己批判を更に更に

続けなければならない。

今まで教壇からおこがましくも人の子に学を

説いた私であはったが、今天下万民から教えを受ける

好機に恵まれた」


オヤ、と思うほど、健気な言葉ではありませんか。

しかし、彼の苦難は続きます。


戦後、帝国大学の教授、というのは大概、公職追放

されたようで、中川博士もその一人でした。

彼は、そもそも農家の生まれで、苦学力行して、

帝国大学の博士・教授にまでなった、

非常に頭脳明晰な人物ですが、

嫁も、いわば下宿屋の娘をもらったも同然なので、

「持参金もないし、着物もろくに持っていない」

というぐらいですから、嫁方から資産を得たわけでは

ないので、

無職になったときの経済状態は、決して安心できる

ようなことではなかったと想像できます。


昭和26年に、ようやく公職追放が解けても、

母校京都大学復帰の席はなく、

島根大学教授として、教壇に戻ることになります。


そして、兵庫県の日本海側の竹野町に診療所をもつ

女医と結婚。

その町から島根大学に通うようになります。

しかし、この女医との間はうまくいかなかった

ようで、島根大学をやめて、甲南大学に迎えられると、

兵庫の家を出て、京都に帰って、ひとり暮らしを

するようになります。


その中川の身の回りの世話をする人として、

女医が竹野町出身の増田冬子を連れてきます。

この女性が、

最後まで、中川の身の回りの世話をして、死を看取る

ことになるのですが、

昭和28年、このとき、23歳でした。


冬子は、はじめのうちほとんど会話を交わさない

この「京大のえらい先生」を、学者特有の気難しい

人だと思いこんでいたが、次第に少しずつ打ち解け、

馴れていった。

気難しいと思ったのは無口なせいといつも書斎にいる

からで、根は優しい人だと分かっていった。


昭和31年、中川博士が脳溢血で倒れます。

冬子の、中川の世話は、3年間と決まっていて、

その満3年を迎えた矢先だった。

冬子の次の仕事は決まっていたが、その雇い主に、

中川は倒れる2,3ヶ月前に手紙をしたため、

「冬子はとってもよくしてくれます。

出来ましたら今しばらく冬子をこちらに居させて

いただけないでしょうか。

とってもよく世話をしてくれます。

勝手なお願いですが何卒ご考慮ください」


脳溢血で倒れたとき、中川博士は甲南大学の

教授だった。

1年寝たきりの闘病生活のあと、すこしずつ回復して

車いすで動けるようになった。

京都の家を売り払い、甲南大学の寮のような住宅に

移ったが、口のもつれは続き、教壇にたつまでは

回復せず、もっぱらキャンパスの近くを冬子が車いすに

乗せて散歩をする毎日だった。


女医とは離婚した。その手続きもすべて冬子が

代行した。


また1年経ったが、それ以上の回復はせず、

大学側からの「もう1年の休学扱い」の勧め

に対して、中川はこれ以上の迷惑はかけたくない、

として依願退職。


そして、冬子の実家竹野町に近い、城崎温泉に

家を借りて住むようになる。

・・・・・・・・・・・・・・
冬子はくる日もくる日も午後になると、博士を

車椅子に乗せて地蔵湯に連れていった。

午後の早い時間だとまだ温泉にくる観光客の

姿もまばらだ。

すいている時間をねらわないと、男湯に入る

のは恥ずかしい。

冬子はなるべく入浴客のいない時間に来て

博士を車椅子から抱え降ろし、手早く衣服を

ぬがせて裸にし、背中におぶって大きな湯舟に

いく。

温泉にゆっくりつけてから洗い場で軽くマッサージ

をする。

博士が片手をあげて何か言う。

湯につかりたいと言っているのだ。

冬子は「よっこらしょ」とかけ声をかけながら

博士をだっこしてゆっくり湯につける。

冬子の着ているものはびしょぬれになっている。

そんなことを気にしていたら博士を温泉にいれる

ことなどできない。

湯からあがると、再びマッサージだ。

何度はくりかえす。

冬子の額に玉のような汗が吹き出てくる。

地蔵湯をでたらほっとしてぐったりするが、

入っているときは無我夢中だ。

「大変ですね。ご主人ですか」

たまに温泉に入っている客が声をかけてくる。

確かに大変だが、これが日課だ。

毎日温泉に入れるためにこの町に引っ越して

きたのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


やがて、博士は、城崎温泉から車で15分ほどの

豊岡市に、200坪の土地を買い、家をたてる。

京都に家を売った金で充分まかなえた。


京都大学と島根大学を通産して、やっと年金を

もらえるようになっていたが、それだけでは、

生活はやっていけなかった。

冬子は日がな一日ミシンを踏んで内職した。


やがて、村の人たちが博士のところによく遊びに

くるようになる。

近くの観正寺の住職もしばしばやってくる。

春や秋、季節のいいとき博士は車椅子で庭に出て、

村の人たちも庭にそこここに自分の場所を決めて

座り込む。

寒いときや雨の日は部屋に車椅子を置き、

その周りを村人たちが囲んだ。


博士は満足に口がきけなかったので、

なにをいわれてもただ笑っているだけだったが、

「車椅子のえらい先生」は村人たちの話の聞き役に

なった。

談論風発、ときに意見が分かれて言い合いになることも

ある。

そんな時、ひとりが「みろ、先生もそうだそうだと

おっしゃっている」と言い、博士がうなずくとみんなは

それで納得するのだ。

甲南大学のかつての同僚や教え子絶えずといっていいぐらい

豊岡にやってきた。

博士の長女やその家族、藤沢に行った長男、二女たちも

ときどき父を訪ね、父の世話をしてくれる冬子に感謝した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あるとき甲南大学の関係者が相談して冬子の籍を

中川与之助のところにいれようということになった。

「このままだと、冬子さんあなたの立場はあくまで他人の

ままだ。

先生にもしものことがあっても、先生の年金ももらえない。

この家も土地もあなたと関係なくなる。

先生の今日あるのもみんな冬ちゃんのおかげだ。

形だけ、法律の上だけでいい。

冬ちゃんに先生の奥さんになってもらおうと思う。

中川家のみなさんも異存はないと言っておられる。

そして、このことは誰よりも先生が望んでいらっしゃる。

冬ちゃん、いいね」

博士が車椅子から身を乗り出すようにして聞いていた。

そして一言一言にうなずいていた。

冬子の頬に涙が伝った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

晩年になるほどに、

多くの人々に慕われるようになり、

天使のような女性、冬子にめぐり合えた中川博士。

これは、偶然だったり、運が良かっただけでは

ないのだろう、と思う。


最初の妻、俊子と別れたときの手記に、こう書いた。

「私はK氏に対し、またT子に対し、いかに人間学的な

認識の足りなかったことか、矢張り私の学問の

浅慮不徹底のいたすところだ。

私はあらゆる角度から厳しい自己批判を更に更に

続けなければならない。

今まで教壇からおこがましくも人の子に学を

説いた私であはったが、今天下万民から教えを受ける

好機に恵まれた」



この心が、彼を変えていったのだと、思う。



僕もまだ、遅くはないぞ。。。






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このキューピーさんの絵は奥さんのゴイ作です。
退職後、ロングステイ先を求めてタイにやってきたのが2008年。あせらず、あきず、あきらめず、いつまでも成長していける心で、豊かに生きることを願っています。産業カウンセラーの資格を退職後に取得。モットーは、あ・た・ま=明るく、楽しく、前向きに。

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