2017/05/08
木々を渡る風 小塩節
「木々を渡る風」、ドイツ文学者、小塩節さんの日本エッセストクラブ賞を得た
エッセイ集のタイトルです。
ゴルフ場にいっても、緑が濃淡あざやかな季節になり、
眼をなごませてくれるようになりました。
この本の中の「ツツジの赤い花」という章に、こうあります。
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これからの季節は、野にも山にも都市の中でも緑が濃くなり、
ときにはむせかるほどの緑の力が圧倒的である。黒ずんだ
樹皮を破り、メリメリと音がするようなぐあいに花々がおしでて
くる。そしてなんと晴れやかな五月の大気だろう。
木々を渡る風は、晴朗の気を運んでくれる。文字通りほんとうに
新緑にかおる五月の薫風(くんぷう)は、大自然と人生の若さの
美しさをうたってやまない。若い日、青春。そのときは悩みも思い
煩(わずら)いもあるし、自分自身の愚かさや醜さに敏感すぎる
ときでもあるけれども、しかしやはり人生において、若い日々ほど
すばらしいときはもう二度とないのではないだろうか。だから一生
をかけて、若き日の志と情熱を持ち続けられる人の生涯はとうとい
と言えるだろう。大自然もまた、この若い五月の日々を一年の冠と
して、精いっぱい生き始めているのだろう。
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はからずも、この章の文章が、このエッセイ集の中で一番美しいので、
本のタイトルもここからとったのでしょう。
若い日、青春。もう一度、戻りたいかと問われれば、
あんなに貧しく、不安な日々はもうたくさん、という思いと、
それでも、もういちど青春をやり直せたら、という思いが
交錯します。
イングリッド・バーグマンに、こういう言葉があるそうです。
(先日、ミステリードラマでのキー・ワードに使われていました)
「私が後悔するのは、しなかったことであり、
出来なかったことではない」
出来た、出来なかった、ということではなく、
本気で(トライ)しようとしたか、どうか。。。
後悔だらけの人生を、
ひとは生きていかなければならない、
というのが大方の生きる姿であろいと思うのだが、
春がくるたびの、初心のこころをやさしくゆすぶって
くれるのだろうか。
最近、すこしだけ、読書欲が回復してきて、うれしい。
・里見惇の<聞き語り>エッセイ集「い吾庵酔話」
(いの漢字が出てきません。もと心部 忄 に、台)
・「天才と狂人の間」(杉森久英)―大正の大ベストセラー「地上」
の作者、島田清次郎の伝記で、直木賞受賞作。
・「北国の春」井上靖 短編集
・「徒然草」 杉本秀太朗 -これは以前から時間ができたら、じっくり読みたい、
と思っていた本。
徒然草の読み方の、さまざまな形があることを痛感しました。
手元にある、奈良岡康作 訳注の旺文社の文庫本は、
第一段の訳はこうなっています。
しようにもすることのないもの淋しさにまかせて、
終日、机の上の硯に向かいながら、心中につぎつぎにうつっていく、
とりとめのない事を、何というあてもなく書きつけてみると、
妙にわれながらばかばかしい気持ちがすることである。
もし、「われながら、ばかばかしい気持ちがする」書き物なら、
これほど長く人口に膾炙してはいなかったであろう、と思う。
さもあるように、非常に浅薄な訳や、解釈が少なくない、ようだ。
杉本秀太朗は、「心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく
書きつくる」と断ったのは謙遜、遠慮であって、
「心にうつりゆく大事なことをきっちり書きとどめる」というのが
兼好の本意である、と言い切っています。
「あやしうこそ物狂ほしけれ」とは、
さまざまなことを書きつらねるほどに、
我ながら、正気か狂気かいぶかしくなるほど心気が熱してくる、
と。
徒然草は、隠遁した坊さんの、冷徹な人生観照の本などではなく、
無常な世に耐えていく、パッションを読み取ることができるのだろうか。
思えば、なんども手に取った徒然草も、
通して読んだことはないなぁ。
^O^
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